Amazonプライムでいつか観たいなと考えていた作品です。湊かなえ原作の作品です。
公開からしばらく経っていますが、念のためネタバレ注意。
—–
「復讐」と「更生」という言葉はこの話の登場人物の誰のためにもない、と思いました。
それと、「命の重み」について考えさせられてみたりもしました。
復讐と更生(なーんてね!)
一般論で言えばAとB、どちらも更生の余地はあります。何しろ生きてるので。
ウェルテルとか、事情聴取に来た警官たちとか、テレビとか、とにかく第三者的には「更生の余地あり」です。本来であれば第二者であるはずの桜宮もそんな感じのことを言ってるシーンがあった気がします。(でも桜宮氏はかなり外野ですよね…)
出来る、そしてしても良いし、した方がいい絶対正義の「更生」ですが、この話の中で、それは誰のためになるのでしょうか。
修哉(A)は他の命すべてを相対的に軽くさせていた最も重たい命(母)を自分の傲慢で亡くします。再婚し彼を遠ざけた父は、更生した彼を家族と呼んで抱きよせるでしょうか?(そして修哉はそれを望むだろうか?)、理解者(あるいはそうあろうと心を砕いた人)も亡く、友人もない。直樹(B)も同様で、誰も何もかもが彼の生きる動機にすらならなかった。
2人とも人生積んでます。可能/不可能で言えばまあ生きてるので可能です。ただし、現実的ではない。そして意欲も、動機もない。
更生は被害者のため?被害者とは誰でしょうか。森口?彼女の吐く聖職者としての正論は一貫して、馬鹿にしているようだと私は感じました。更生するから、更生したから、だから何? するのかもね、出来るんじゃないですか、した方がいいんじゃないですか、そう言われてるし、言ってみたよ正論でしょ。みたいな。とにかく、彼らの更生は何一つ彼女のためにはならないし、望んでもいない。
そして多分、彼女にとっては「復讐」も同じくらい軽々しくて、薄っぺらいものです。きっとものすごく本気で生き地獄に落としてやろうと思いながら、感情は凍り付いて、淡々と他人事のように(あるいは仕事のように)していることのようにも見えました。試してやろうとか苦しめてやろうとか、そういった情念がまるで感じられない。確かに大体はまあ復讐だしやっていることもそれなので「これは復讐です」と言ってみる。
死者たち?(死人に口なしでは?)、ウェルテル?(何も知らないのに?)、世間?(それは誰?)
そして罰と反省の機会は、一線を超えた彼らにだけ必要なのか?(あの教室を見て本当にそう思う?)
「復讐」も「更生」も、馬鹿みたいにしらじらしくて軽くって、「なーんてね」って感じですね。
命の重み
と書くと「命は凄く重くて尊いもの」のような感じがしますが、この映画が言いたいのは単純な軽い/重いではないような気がしました。
たとえば命が万人同じ1kgだとします。ただし主観によりその重さは違って感じるでしょう。
修哉にとっては母の命は1tを超えていて、自分を含め他の命は多少の差はあれ1t超に比べれば塵みたいなものです。
直樹は自分の命が一番重たいけど、まあまあ他人の重りの影響を受けるくらいには差が少ないんだと思います。だから多分、自分が一番重たいはずなのにすぐにぐらつかせてきて、脅かしてくる修哉や母や森口のことは、疎ましいんだと思います。
森口にとって一番重たかった命は間違いなく娘です。でも、修哉や直樹にとって、彼女の中で最も重たく尊重される命は塵みたいで、一番なんかでは全然ない。彼らはそれほど意識していませんが、間違いなく軽んじました。
だから森口も同様のことをしました。彼女にとっては何とも思わない命を。
一つの同じ命でも、誰かにとっては奪われたら耐えられないほど重いものであり、別の誰かにとっては吹いて飛ばすほどとても軽い。
だから全部重いものだと思って扱え…とか、そういうことではなくて。覚えておけよ、ということなのではないでしょうか。
なーんてね