玉集めお疲れ様です。取りあえず1つ目の手紙セットで鶯丸を修行に出しました。
雪が降り始めた小雪の景趣…画面が寒い…現実も十分寒いのに…。
山姥切長義の近侍曲も無事手に入れました。神曲と名高い聚楽第BGMに近い感じなのではと噂されていましたが、誰でもない、本歌山姥切の音がして嬉しかったです。
壮大華麗、気高い突き刺すようなマイナーコードと軽快なリズムで楽し気に、軽やかに死を与えている。メイン楽器はバイオリンで、笛でアクセントを入れつつ、最終的にエレキでぶちかましてくれる奔放さも好き。楽器数もですが、一単位時間毎に鳴る音数が多いので、特別華やいで聴こえるのかも知れません。
印象的な笛のメロディ=堀川国広が写しとった部分=国広の曲のメインメロディ なので、大変良く出来ているなあと感動します。長義っぽいメロディで国広の曲が始まるの、「分かってる」。強い。でも「本作長義のメロディ」は恐らくそこではなく20秒くらい(2:12も)から始まるあの旋律なんでしょうね…。国広はアクセント部分を持っていってるだけなのね。
国広の曲は繊細な主旋律が終始はっきり鳴って、後ろのドラムが朴訥として力強い。聚楽第ボス戦BGMはむしろ曲運びが国広っぽいようでした。
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(とうらぶの)聚楽第が何なのか、イベントとして、歴史としてどういう意味を持っていたのか今さら勉強しました。
お上から「任意だが行って戦えと言われた」から行きました~くらいの理解でいました。すみません。
天正14年
7月 山姥切長義 北条氏長(北条氏政の嫡男)から長尾顕長へ下賜。
天正15年
聚楽第完成、関白豊臣秀吉の邸宅兼政庁として利用される。
天正16年
北条氏政、聚楽第行幸への列席を拒否(豊臣方に恭順せず)。名代として氏政の弟が上洛した。
天正18年(1590年)
2月 山姥切国広完成、小田原征伐開戦
5月 山姥切長義、堀川国広により銘入れ
7月 小田原征伐終戦
小田原征伐:北条が豊臣に征伐された戦。氏政死亡。長尾顕長(山姥切国広を打たせた武士)は北条方として参戦し、浪人(山姥切国広はその後浪人武士を転々とし、個人蔵へ)。
件の1590年の「放棄された世界、歴史改変された聚楽第」に、北条氏政なる人物が確認された。
氏政は聚楽第に訪れたことはなく、小田原征伐の敗北により切腹しているはず。生存し、聚楽第にいるとなると、
①豊臣との対立構造がはっきりしていた天正16年に聚楽第に赴き、豊臣秀吉側に恭順している
→この場合、小田原征伐が何かしらのきっかけになった可能性の高い、山姥切国広は討たれず、同時に山姥切長義の銘も打たれない(刀剣としての知名度や価値は銘や逸話、確かな来歴などの情報が残っていることが重要なため、今ほどの価値は長義になかったかもしれない)
②小田原征伐は豊臣側の敗北に終わり、政庁聚楽第は氏政のものになった
→長尾顕長は浪人にならず、長義と国広は共に足利長尾家(北条家家臣)所蔵となる。
その後来歴の不明な間に「山姥切」国広になるのか、南北朝に打たれてから北条家に至るまでの200年ほどから「山姥切」長義であったのかは謎。もしかしたら「本作長義」と「(別の銘)国広」と呼ばれることになる。長尾国広とか、北条国広とか。本歌も写しも出来が良いので、きちんと現存すれば重文・重美指定はされただろうが、来歴がすべて違っていたら二振り共に現存は出来ない可能性がある。
聚楽第ボス戦BGMに相槌(刀を打つ際の金属音)と熱いものを水に入れた時の音が鳴っていると言われています。このタイミングで打たれて生まれているのは国広の方なので、歴史の修正が正されようとしている時に打たれる…となると①ですかねえ…。
しかしわざわざ「山姥切長義」の分岐点に本人を監査官として行かせたのはなぜなのか…。長義の忠誠も量られている?